数字は万能か、経験した火災から考える

数字は万能かという話である。さて、昨年5月26日、筆者は火災にあった。現場は住民票もなく登記上はたんなる「本店ではない作業場」なのだが、諸事情で数年前から住まい兼メインの仕事場になっていた。その火災について「数字」をスケプティクスに考えたい。

経験者からすれば確率には何の意味もない

筆者は火災により、家財・什器はあっというまに全損した。

出動した消防車・救急車は、周辺の町の消防署までカラにして全20台出たという。

妻子3人が、私の目の前で意識不明の重体で救急車で搬送された。

うち一人はすでに心肺停止……

このときの筆者の精神状態、想像つくだろうか。

昔、損保会社に勤務していたとき、火災はその人の家系で400年に1回、と教わったが、400年といったら、もう孫の孫の代である。

しかし、実際にそこまでいっても、おそらく筆者の経験はなかなかできないだろう。

「ニセ科学」批判をされている知識自慢のみなさん。

どうだろう。

私の経験を確率で計算できるだろうか。

きっと「できる」って、気色ばむだろうね。

「火災にあう確率」×「家族が全員意識不明になる確率」×「そのうち一人が心肺停止になる確率」……

計算はできるだろうが、そこに意味あると思うだろうか。

いや、防災に役立てるなど統計上のデータとして計算することは否定しない。

ただ、当事者に対する啓蒙の材料に使うものではない、と言っているのだ。

たとえ何十万分の一の確率だろうが、経験した当事者にとっては「100%」なのだから、わずかな確率と指摘されても話はかみ合わない。

「だからどうした。自分の経験は歴然とした事実だ」

としかいいようがないのだ。

なぜ、こんなことを書くのか。

「運」はニセ科学ではないだろう

以前、私が「超自然現象や疑似科学を調べる」という掲示板を開いていたとき、自分が「運が悪い」とボヤく書き込みがあった。

それに対して、「疑似科学否定派」気取り2名が、競馬や宝くじなどの確率を根拠に反論していた。

要するに、当たる人と外れる人がいるものだ、「いいこと」と「悪いこと」は客観的に説明がつく。

だから、「運が悪い」という思いなどは「ニセ科学(の温床)」だというのだ。

しかし、数字(確率)は事象を客観的に見たものであり、一方、「運が悪い」という思いはその人の感じ方の問題だから価値意識の範疇にあるものだ。

客観的認識と、価値意識というのは別のものだろう。

たんに「どう思うか」はその人の自由である。

私がそう反論すると、そのうちの1人は、「(私が反論するのは)文系と理系の考え方の差だ」などと捨て台詞を書きこんで、掲示板から去っていった。

要するに「理系の考え方」というのは、その人の主張に従えば、すべてを数字(の大小や有無など)に還元して結論付けるものらしい。

しかし、いずれにしても、なんでも専攻のせいにして、自分の書き込みの批評から逃げてしまうのは卑怯な態度だと思った。

筆者の今回の例で言えば、そんな経験はしない人が大多数なのに、なぜ自分はそんなすさまじい経験をするのか。

自分が「大多数」の中に入れなかったことを「運が悪い」と表現したとして、どこが「ニセ科学」なのだろうか。

「ニセ科学」というのは、いうなれば命題の真偽にかかわる事実から目をそむけたり、逆に本来の命題と論理的な整合性のない「事実」を強引に引っ張ってきたり
する主張である。

つまり、事実の取り扱いに誤りがあることをさす。

事実を否定するわけではなく、自身の心の中でどう受け止めるかという点での「表現」や「思い」に対して、そうしたレッテルを貼る必要はないし、そういうレッテルを貼りたがる人に対しては、逆に「何でも数字だけで判断したがる人」とトンデモぶりを勘ぐることができる。
(もちろん、運が悪いと落ち込む人をなぐさめる意図からなら、そのような言い方もひとつの見識だと尊重する度量はあるが……)

理系の範囲でしか答えを出せない

昨年の「原発と放射性物質問題」で、大気や水の汚染について、「数字」だけを都合よく取り出し、レントゲンやCTと比べた論理などは、まさにそのパターンである。

大槻義彦氏、東日本大震災コメントの問題点

その際たる勘違いが大槻義彦さんで、あろうことか、レントゲンやCTではだめだ、比べるならがん治療の放射線治療にしろと例のごとく「らしい」暴論を述べていた。

安斎育郎さんが、青山繁晴氏の出演する番組でそうした論法を批判されていたのは救われる思いだったが、紀藤正樹さんが以前言われていた「(大学時代)何でも数式で答えが出ると思っている人(がいた)」というのは、本当にある話なんだなあと、改めて「理系の範囲でしか答えを出せない」立場に呆れたものである。

健康情報・本当の話
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