安楽死議論が昨今活発である。誰がどう考えどんな意見を述べるかはもちろん自由である。ただし、安楽死問題(終末期医療)とは違う救命救急医療を、あたかも安楽死議論の本質であるかのようにすり替える議論には厳しい批判を行わなければならない。
矛盾だらけの「安楽死」論
1998年、川崎協同病院の院長だった須田セツ子医師は、心肺停止状態の患者から気管内チューブを外し、鎮静剤と筋弛緩剤を投与して、殺人罪で有罪判決を受けた。
しかし、本人はいわゆる安楽死との立場から、自分の行為は殺人ではないと言い張った。。
川崎協同病院を追われた須田セツ子医師は、殺人罪だったにもかかわらず、医師免許を剥奪もされず、停止も期限付きだったため、今も自らの考えを変えずに医療現場にいる。
その言い分には、医療従事者でなくても、スケプティクス(懐疑者)としてみたら矛盾があることを指摘できるので、ここに引用しておく。
本人は今もこう持論を展開している。
「もしいま、ここで人が倒れて息が止まっていたら、救急車が呼ばれて、人工呼吸が始まります。挿管して人工呼吸の処置を受けることになりますが、それは延命治療の始まりを意味しているのです。
一度始めたとしたら、意識が戻らない場合、どこで止めるべきなのか。救急の場合、親族に相談なしで延命治療が始まることもありますからね。ただ、それをやらなかったら救急医療は成り立たなくなるのも事実です 」
救急医療は、「延命」のためにあるといい切っている。
ジョーダンじゃないよね。
冷静に読めば、ツッコミどころ満載であるが、筆者ごときが気づいた範囲で。
緊急医療と終末医療の混同
まず、最大の誤り、もう医師としては故意だと思うが、巷間行われている安楽死論争は終末期医療である。
しかし、この女医が言っているのは、救命救急医療である。
このふたつは、対象となる患者も、目的も全く別である。
終末期医療なら、たしかに、それまで長い治療・闘病生活があり、その結果として回復の見込みがない患者が対象である。
しかし、救命救急医療というのは、心肺停止する直前まで、全く何の予告も準備もなく、ごく普通に生活していた人である。
そして、蘇生後、またもとの生活に戻る可能性のある人を含むのである。
これだけはっきり違っているのに、救命救急の例を出して、安楽死を述べる須田セツ子医師は、医師として論理が破綻している。
たとえば、筆者の妻は6年前、火災による一酸化炭素中毒で心肺停止した。
つまり、救命救急医療のお世話になって生還できた。
これはもう、救急隊の方々や、第三次救命救急病棟の医師や看護師らのみなさんのおかげである。
しかし、もし津田セツ子医師にかかったら、「意識が戻らない場合」などという仮定を口実に、「延命」なるものをしてもらえなかったかもしれないと、現在は戦慄を覚えている。
だいたい、「意識が戻らない」かどうかなど、やってみなければわからないだろう。
医師なら、その時の状態で、通常の蘇生術で息をふきかえすのか、胸を開けて心臓を強引に動かすことで生還させられるのかを判断し、すぐに処置すべきである。
その際、つまり救命救急段階で、かなり危ない人がいたとしよう。
つまり、助けても遷延性意識障害になってしまう可能性があるときだ。
須田セツ子医師は言明していないが、おそらくは、これも殺す候補に入っているのだろう。
しかし、家族はそのときは混乱していても、少し時間が立っておちついてから、たとえ寝たきりであっても、安楽死させなくてよかった、と思うことがあるかもしれない。
人間というのは、刹那的で自分勝手なものである。
ちなみに、我が長男は、妻と同じ事故で、いったんは遷延性意識障害と診断された。
しかし、その後、回復した。
こう書くと簡単だが、もちろん大変なリハビリがあった。
医師たちの強引な説得で、今も喉には穴が開いている。
はたして、これは必要な穴だったのか、今も疑問だ。
須田セツ子医師の言い分を聞いていたら、喉の穴どころではなかったかもしれない、という恐怖を覚えた。
少なくとも言えることは、蘇生して遷延性意識障害だったとしても、だからといって、生きる資格が無いように決めるは、医師としてさしでがましい。
家族の思いを勝手に「忖度」
さらに、須田セツ子医師は、「家族が自覚的に考えず体面で何となく患者を生かす」ことを批判している。
これもおかしい。
生きることは、いちいち考えることではない。
生きとし生けるものという言葉を知らないのか。
その論理でいえば、「家族が手こずる者は生きる資格がない」という理屈になり、認知症や発達障害の家族を殺してもいいことになってしまう。
もっとも、須田セツ子医師の論理はともかくとして、指摘に限って言えば唯一賛成しても良い点である。
須田セツ子教としてではなく自分の頭で考えろ
私が一番問題だと思うのは、それこそその「他人任せ」である。
上記のリンク記事のコメントを見ると、須田セツ子医師に深く考えず同調しているものがあるが、須田セツ子医師の論理の冷静な分析もせず、軽率に賛成する信者がいることが何より嘆かわしい。
だいたい、賛成したからと言っても、そういう手合に限って、自分の家族に安楽死をさせられない「ヘタレ」なのである。
要するに、自分ではできないが、他者がやったらやろうというヒキョウな奴が同調しているのである。
そうでないのなら、須田セツ子医師の論理のすり替えはきちんと批判した上で、自分の安楽死論を正々堂々と述べればよいではないか。
筆者は、安楽死議論、意見はいろいろあっていいが、決めるのは当事者であり家族である、という原則は守って欲しいと思う。
少なくとも、医師が救命救急医療を怠る口実にすべきではない。
管を入れようが針を刺そうが本人は何もわからない
なお、ひとつ付け加えておくと、安楽死賛成者の中には、管をつけて苦しい思いをしてまで生きたくない、と言っている人もいるが、心肺停止したら、管を入れようが針を刺そうが本人は何もわからない。
だからその点は、心配ご無用、と心肺停止経験者の我が妻は語っている。
有象無象の、机上の空論には絶対に出てこない重い話だ。
以上、須田セツ子医師の先回り論法から安楽死議論の虚実を考えた、はここまで
冒頭のイメージ画像
Ryan Moreno
@ryanmoreno
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