週刊文春と「ニセ科学」、社会の中の疑似科学を読み取れ

週刊文春とニセ科学

週刊文春がまた売り上げを伸ばしているという。今週号は橋下徹大阪市長の女性スキャンダル。橋下徹市長は、その記事で辞任問題にまで言及(本人は否定)し、デヴィ夫人が、「水商売の掟破り」と暴露した相手の女性に腹を立てて「参戦」。問題を大きくしている。

スケプティクスのセンス

筆者は、橋下徹氏の、政治的手法や政策の多くについて疑問や懸念を抱いている。

だからといって、どんな叩き方をしても構わない、では理性的なメディア評価はできない。

今、この時期になぜ橋下徹氏批判が出たのか、文春がこのネタを記事に起こしたのか、考えてみる必要があるのではいか。

それにしても、沢尻エリカ大麻疑惑、原辰徳監督1億円事件と同誌は立て続けに「スクープ」を発表。

政治家についても、小沢一郎氏夫人の怪文書、そして今回と、分野を問わず、タブーに切り込んだ勇ましい媒体としての評価は高まりそうだ。

が、ここで、「さすが、歴史と権威ある出版社の週刊誌ジャーナリズム」と文春に感心している人は、スケプティクス(懐疑的)なセンスがない。

見かけの華々しさに対して、ぼやーっと見とれるのではなく、その裏を見ることを忘れてはならない。

それができない人は懐疑者として失格なのだ。

筆者は、そこが疑似科学を含めた「疑う者」として大前提となる資質だと思っている。

スクープは連発しているが……

さて、週刊文春、というより文藝春秋社は、これまでに幾多のスクープをものにしてきた。

政治分野なら、たとえば、田中角栄氏の研究、日本共産党の研究、週刊誌では、日本共産党幹部とソ連共産党のつながりなどがあり、最近では冒頭に書いたように小沢一郎氏夫人の怪文書がある。

同社の記事は、田中角栄氏の政治生命に大きな影響を与えた。

日本共産党幹部とソ連共産党のつながりを報じたときは、古参幹部の野坂参三氏が、100歳にもなって同党から除名されたことで、岡野加穂留第11代明治大学学長(三木武夫元総理の側近)など、一部のシンパ的文化人が同党と距離を置くようになり、同党は二重のダメージを受けた。

政治以外にも、ナベプロ、ジャニーズ事務所、黒川紀章氏、三浦和義氏、そして先日の巨人・原辰徳監督など、時の権勢を誇る個人、企業、団体に対して、片っ端からタブーをぶち破るかのような、センセーショナリズムと覗き見主義で特ダネを連発した。

しかし、問題もある。

少なくとも4割は不当に傷つけている

まず、記事自体に書きトバシが少なくない。

筆者は、同社の編集部隊を支える法務部の人に取材し、その考え方を書籍でインタビューという形でまとめたことがある。(『平成の芸能裁判大全』2003)

おそらく、マスコミ媒体では初めてのことだったろう。

そのときの話で、文藝春秋社の名誉毀損裁判は「49訴訟で29勝15敗5分」。

昨今のプライバシー重視の傾向から考えると「高勝率」だと言っていた。

その後、勝ったり負けたりを続けているようなので、厳密に計算はしていないが、2012年現在ではだいたい勝率が6割ぐらいではないかと見ている。

この勝率が高いかどうかは、評価の問題なので人によりけりだろうが、問題は、6割勝ったのなら、4割は負けたということ。

名誉毀損というのは、事実であっても訴えられることはありえるが、原告の利益を考えれば、間違いやでたらめ報道だから訴訟となるケースが通常なので、少なくとも4割は、不当に人や団体を傷つけていることになり、訴えていない人や団体を含めれば、誤報、虚報はもっと多いかもしれない。

それが、日本で一番売れている週刊誌を擁する伝統ある出版社の実態なのだ。

真実を明かすためには、訴訟を恐れてはならない、という考え方が書き屋にはある。

そして、それは、間違いとはいえない。

というより、それがない書き屋は、書き屋として一人前ではない。

表現者でないと、なかなかこの辺の感覚はわかりにくいだろうが。

ただし、それは、名誉毀損というものの定め方に抵触するけれど、表現の自由の中で、避けて通れないケースでの究極の選択であり、センセーショナリズムありきであったり、相手を脅迫したり、否定したりといった「私闘」目的であってはならないと思う。

もちろん、間違いがあれば素直に撤回や謝罪をすること。

しかし、同社が敗訴のたびに、反省や再発防止をきちんと読者や一般社会に向けて説明したことも約束したこともただの1度もない。

今回の東電などは当然だが、どこの企業だって自らの営みが社会・国民に迷惑をかけたら、記者会見をしてコウベをたれ、調査委員会がなにがしかの報告をして、
どのくらいヤル気かは別として、一応「これからはこういうふうに気をつけます」という発表がある。

マスコミがそれをしないのは、表現の自由を特権と考えた言論機関の甘えだと筆者は思っている。

もっとも、たとえ間違いがあってとしても、フェアに、誰に対しても、どんな組織に対しても等しく批判精神のペンを用意していれば筋が通っているが、残念ながら同社はそうではないように思う。

ここから先が、今回問いたいことである。(長い前置きですみません)

文春ジャーナリズムの本性とは

消費税反対の青票を投じる直前の小沢一郎氏や、国政進出をうかがおうとする橋下徹氏に対しては、わざとその時期に(記事自体の信憑性だってわからない)
スキャンダラスな記事をぶち上げ、一方で、公約違反の増税やマニフェスト棚上げに舵を切った野田佳彦総理については、財務省にマインドコントロールされた言い分を
そのまま記事にしている。

野田佳彦総理だって、実弟の市議もそうですが「政治とカネ」の問題があるのに……

仙石由人という代議士のセクハラについても同様である。

なぜ、こちらは叩かないのだろうか。

要するに、文春は官僚帝国主義の保守国家を求めており、その推進勢力に致命的な批判はしない。

しかし、官僚帝国主義の保守国家を目指さない政治家や政治勢力に対しては、右も左も保守も革新もなく、ときには黒のものもシロと言いくるめるようなきたない論理まで使って強引に叩くのではないだろうか。

それが、文春ジャーナリズムの真骨頂である。

今、露骨にそんな編集方針があらわれていると感じている。

タブーを恐れず何でも批判しているようで、実はそうではない。

これは、池内了氏がいつも仰っている、社会の中の疑似科学という一面があると思う。

社会の中の疑似科学

池内了氏や安斎育郎氏は使わないが、「ニセ科学」といってもいいですだろう。

昨年亡くなったジャーナリストの大御所、松浦総三氏は、「『文芸春秋』の研究─タカ派ジャーナリズムの思想と論理」 (1977年)の編著があり、
それ以外にも折に触れて文春批判を行ってきたことで知られている。

同氏によれば、同社が発表した「田中角栄の研究」も、「日本共産党の研究」も、根っこは同じで、同社の体質からして必然的に出てきた記事だという。

日本共産党はともかくとして、田中角栄氏のような「保守」政治家をどうして叩くのか疑問に思われるかもしれないが、政治に少し詳しい方ならご存知のように、
田中角栄氏は、「保守」としては異端であり、そもそも傍流である。

40代から50代の人には、木曜クラブ(田中派)や経世会(竹下派)は、「政治は数」の理念で、陣地を広げたから、さも自民党の中枢にいたかのように見られがちだが、
彼らは決して「保守本流」ではない。

わが国における「保守本流」というのは、親米、親官僚、タカ派、反共の4要件が揃わなければならない。

それは、自民党の綱領と、決めてきた長年の政策を見ればわかる。

自民党派閥の中で、それが全部揃っているのは……、

さあ、どこでしょうか?

同誌、というより同社が目指すのは、保守本流が目指す新自由主義の応援団といっていいだろう。

今回の小沢一郎氏や橋下徹氏らの「保守政治家」についても、「官僚帝国主義の保守国家を目指さない政治家や政治勢力」だから叩くという点で
つじつまが合っている。

小泉純一郎元首相が、かつて「自民党をぶっ壊す」と啖呵をきっていたが、実は壊したのは(たとえば亀井静香氏など)「4要件」に合わない
政治家や政治勢力であり、実際には「ぶっ壊す」どころか純化した。

これを詐術といわずになんと言ったらいいのか。

そのよしあし評価や、支持不支持は「思想信条の自由」で人それぞれだが、大手メディアである同社がそうした方針の下に記事作りをしているということは
読者・国民はきちんと認識する必要があるのではないか。

つまり、きわめて強い特定の政治的意図のもとに、大衆世論操作を狙った記事作りが行われている、ということである。

と、ここまで書くと、また理系第一主義者はこう騒ぎ出すだろう。

「オマエの政治観やメディア評論はたんなる感想文でしかない。定量的に、数字や数式でその事態を証明しろ」と。

何でも数字で出さなければ合理的ではない、というのは形式論理学から一歩も踏み出せない古典的な理系特有の呪縛、すなわちそれ自体が「ニセ科学」
でしかないと筆者は思っている。

といっても、その努力を否定するわけではない。

ただ、過去には、井上輝子(女性学)さんが、女性週刊誌について合計ページ数という「量」で記事の傾向を分析する「定量的」研究を発表したことがあるが、
媒体の記事に対する意味は、少なくとも今回のようなことを調べる場合、字数やページ数で明らかにできるのかどうかは疑問である。

まあ、もし何かいい方法があれば、ぜひご提案いただきたい。

まずは、松浦総三さんなき今、誰かが松浦総三さんの「文春研究」を引き継ぐことだろう。

大槻義彦さんが、板倉聖宣さんの役どころをいつの間にか引き継いだように、焼き直しやパクリでもいいから、それを今も継続することでジャーナリズムのはたらきを明らかにし続ける。

筆者はその意欲があるが、いかんせん能力に疑問があるので(涙)力のある方がおやりになればいいと思う。

一応総理を批判しているが

以上、筆者は「週刊文春」は保守本流応援団マスコミだということを書いたが、まるで同誌がそれに反論するがごとく、翌々週に面白い記事を出してきた。

トップは、「退陣勧告スクープ」と銘打ち、「野田佳彦総理の前後援会長である歯科医師が、社会保障費21億円を搾取していた、この男に『消費増税』を行う資格なし」という記事である。

つまり、一応、野田佳彦総理の批判記事である。

その記事をご覧になって、「週刊文春は保守本流応援団マスコミというが、野田佳彦総理の叩き記事もちゃんと書いているではないか」と思われた方もおられるだろう。

たしかに書かれている。

ただし、「今更」という言葉を前につけるべきである。

三党合意で消費税増税法案は通った。

もしこれが、衆議院の採決前に掲載されれば話は別だが、法案が通ることが決まってから、「退陣勧告スクープ」といっても、そんなものは、「ちゃんと書いている」とはいえない。

むしろ、これは、週刊文春が、「誰に対してもタブーなしに書き立てますよ。小沢一郎も叩くが、野田佳彦も叩いているのだから私たちは公平でしょう」というアリバイ作りとして書かれたものではないかと見ることもできる。

裏読みすれば、この記事は、自由民主党よ、消費税増税も決まったことだし、はやく民主党をお役ご免にして野田佳彦を引きずりおろせ、とハッパをかけているようにも見ることができる。

少なくとも、これをもって同誌が「保守本流応援団ではない」という反証にはならない。

マスコミは、しばしば「不偏不党」とか、「右も左も叩く」といった言い方で、自らの中立公平さをアピールすることがある。

筆者には信じられないことだが、世間知らずの方は、たとえベテランの物理学者でもこれを額面どおり受け止めているようだ。

ジャパンスケプティクスでは、「奇跡の詩人」問題の時、長老物理学者は、NHKがそんなことするなんて信じられないとびっくりしていたし、ジャパンスケプティクス機関誌『NEWSLETTER』では、松田卓也氏が、NHKのメディアとしての権威や信用を評価している件がある。

だから、NHKと朝日と文藝春秋は立派なメディアで、日刊ゲンダイは偏向していて、アサヒ芸能や週刊実話はゲスなカスとり雑誌だ……などというメディアのランク付けが先入観として離れない。

筆者に言わせれば、そういう先入観こそが疑似科学にだまされるメンタリティなのだと思う。

そういう人は、権威や世間体やイメージに負けてしまい、ノーベル賞科学者でも間違えることがあれば、便所の落書きでも正しいことはある、ということを
いつの間にか忘れてしまいがちである。

不偏不党とは「何も変える気がない」ということ

朝日新聞などは、自らの「綱領」に「不偏不党」を明記している。

だが、マスコミ機関として、なにを勘違いしているのだろうと筆者は思う。

国会は、与党がいて野党がいる。

政権与党は多数派であり、政治をリードする側であり、それをチェックする野党とは立場が違う。

政治の責任を、与党と野党では同列には求められないはずだ。

野党の「反対の仕方」に論評すべきことがあったとしても、それは政府・与党の政権運営に対するものだから、おおもとの責任は政府・与党側にある。

にもかかわらず、ことさら「不偏不党」とか、「右も左も叩く」といった「中立」をうたうということは、いうなれば「両成敗」してしまうことに等しい。

それは、権限、権力をもつ側の責任を免罪するだけでなく、結局、今の社会構造を何も変える気がない、ということである。

「不偏不党」「右も左も叩く」というのは、うわべの言葉と実態は違い、本質的には保守ジャーナリズムに陥ってしまう。

もちろん、今の政治を是とする立場から、主に野党を批判する保守ジャーナリズムがあることを否定するつもりはまったくない。

ただ、その場合は、正々堂々と政府・与党側であることを旗幟鮮明にすべきである。

アリバイ的に、保守を峰打ちして不偏不党を装うのは、読者に対する欺瞞だ。

誤解のないように書いておくと、今回の野田総理の後援者の記事がでたらめだ、といっているのではない。

記事自体は「欺瞞」ではなく、正当な批判精神で叩いているのだろう。

ただし、その叩く論点や叩く時期などを巧妙にずらすことで、中立の建前と、「保守ジャーナリズム」の本音を両立させることはできる
ということはみなさんに知っていただきたい。

そこをきちんと見ることができるかどうか。

そのためのスケプティクス、「懐疑的精神」ではないのだろうか。

そういう巧妙さを見抜けなければ、社会の中の疑似科学を見抜くことはできない。

これを、たんに、表に出ている記事だけで判断したら

「小沢一郎も批判している」
「日本共産党も批判している」
「田中角栄も批判している」
「野田佳彦も批判している」
「原辰徳も批判している」
「雅子妃も批判している」

だから、文藝春秋社は、まさに誰に対してもタブーのない不偏不党・中立のジャーナリズムだ、という答えしか出てこないだろうう。

「表」だけを見て「ウラ」を見ないとだめなのだ。

いくら既存の知識をコレクションしまくっても、ウラを読むセンスがないと、誘導者の注文にひっかかってしまう。

つまり、断片的な科学知識のコレクターになっても、社会において、疑似科学がいかなる仕組みで使われているか、という構造をみるセンスがないと
疑似科学にコロッとだまされてしまうということである。

オウム真理教の、理系の高学歴者が疑似科学に騙されたのはそういう弱さがあった、ともいえる。

オカルト・疑似科学に騙されないためには、科学教育が必要という一部科学者の視点がいかに訓詁学的なものか、おわかりいただけただろうか。

むしろ理系バカになって社会の仕組みもわからないほうが、フツーの人たちよりもよほど疑似科学にだまされるリスクが高いと筆者は思っている。

文藝春秋の研究―タカ派ジャーナリズムの思想と論理
文藝春秋の研究―タカ派ジャーナリズムの思想と論理

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