マスコミ報道の背後を見るセンスについて書いてみる。具体的には小沢一郎氏の件だ。民主党は7日夕の党役員会で、去る4月26日の無罪判決を受けて小沢一郎氏の党員資格停止処分を解除する手続きに入ることを決めた。ネットでは捜査報告書が流出している。
検察審査会まで使った大がかりな罪人作りの仕掛け
検察審査会なる密室機関が「強制起訴」に持ち込んだ直後、私は小沢一郎氏の懐刀、平野貞夫氏の書籍『日本一新』をプロデュースした。
民主党の「小沢系」議員がこぞって読んだと聞いたが、引用するときは書籍名ぐらい書いてくださいよ、『日刊ゲ×ダイ』さん(笑)
私自身は小沢一郎氏とは何の接点もなく、とくに政治的に強く支持するとかいうこともなかったが(たとえば私は、小沢一郎氏が推した小選挙区制に反対)、この件に限っていえば、小沢一郎氏の好き嫌いの問題ではなく、政策を支持するかとないかの問題でもなく、検察の強引な捜査と検察審査会まで使った大がかりな罪人作りの仕掛けが問われていると思ったので、平野貞夫さんにお願いして書籍を作った。
平野貞夫さんは、国会歴50年の大重鎮だが、筆者ごときの要求に快く応じてくださり、私も満足のいく仕事ができた。
で、そのころは、とにかくマスコミのアンフェアな報道と「小沢一郎はなんとなく怪しい」というムードが国民に蔓延していたが
民主党とマスコミが、いつまでも小沢一郎氏を目の敵にし続けることから、だんだん懐疑的なセンスを持つ国民が気づき始め、また、期待を裏切り続けても政権に居座る民主党をぶっ壊してほしいという期待感から、多少、小沢一郎氏を再評価する傾向も感じられる。(マスコミは相変わらずだが、推定無罪どころか、無罪判決後もああだこうだと書く自己正当化の執念は気持ち悪い限り)
そんな中で、今回の「無罪」判決があった。
マスコミ報道に対する批判がツイッターなどでもずいぶん書き込まれ、私はそれ自体は健全な感覚だと思う。
ただ、ちょっと私の意見として注文をつけたいが、マスコミ報道は、問題のおおもとなのだろうか。
たしかに、マスコミ報道が国民世論に大きな影響をもたらす。
が、マスコミは良くも悪くも「拡散屋」に過ぎない。
マスコミにそのような報道をさせたのは何か、そこまで考えてこそ、はじめて真相に肉薄できるのではないだろうか。
オカルト・疑似科学(批判)も同じことなのである。
物理学帝国主義は社会の中の疑似科学には迫れない
ジャパンスケプティクスの松田卓也会長は、すでにご紹介したことがあるが、マスコミ報道の、科学的に正解でない片言節句を取り出して記者が理系じゃないからこんなことを書くという「批評」をジャパンスケプティクスの機関誌に書いた事実がある。
まあ、そういう批評も「言論の自由」ではあるが、そこにスケプティクスのセンスは感じられない。
もちろん、専門家が科学的な既知から、間違いを指摘すること自体は意味はある。
ただ、「記者の知識」を追求するところで止まってしまったら、極端にいえば、ジャーナリストは学位のない分野の記事は書けなくなってしまう。
そもそも人間は万能ではない。
記者にそんな前提を持つこと自体、現実的ではない。
マスコミは「拡散屋」である。
ニュースソースとスポンサーで読み物はできあがる。
逆に言えば、それなしに読み物は作れない。
これは、個別の記者の知識以前の大前提だ。
こんな当たり前のことを、その物理学者は忘れている。
つまり、個別の記者の記事の「間違い」を個別記者の知識に拠るとして完結するのではなく、そのように間違いを含む記事を書く、そのメディアの方向性は
何によるものなのか、という懐疑をもたなければ、「間違った記事」の真相には迫れない。
マスコミの、さらに一記者に根源的な責任を求めてしまったら、マスコミにそう書かせてしまった「真犯人」を見落としてしまう、ということだ。
そこまで思い至るセンスこそが懐疑的精神の真骨頂だと思う。
記事の間違いを我田引水につっこむだけで終わるなら、いくら専門的な話であろうが、その限りでは2ちゃんねるの書き込みと大差ない。
【関連記事】
小沢一郎氏怪文書騒動と「ニセ科学」
コメント