「権威」に負けないスケプティクスな懐疑の眼を

「権威」に負けない懐疑の眼を

「権威」に負けない懐疑の眼を、という話である。具体例は、『日刊ゲンダイ』(2009年6月19日付)の「当事者たちが明かす医療のウラ側」というコラムで、「首都圏の放射線医」が「新薬の治験データは疑問だらけ」と述べている。

医学を疑似科学にするのは医学者自身

新聞を整理していたら、その記事が出てきた。

例えば、ある抗がん剤は、再発率が抑えられるとの治験データが派手に紹介されていますが、肝心の生存期間が延長したとのデータはどこにもない。
つまりは、再発までの期間は長くなっても、従来の薬と比べて寿命が延びるというものではない、ということとです。
にもかかわらず、従来の薬より何倍も何十倍も薬価は高い。これっておかしいのではないでしょうか? 
そもそも、治験データはよほどよく読まないと間違いを犯します。とくに海外での研究論文は要注意です。製薬会社から援助を受けている学者の論文を権威があるとされる医学雑誌に掲載させ、それが根拠となって、”この薬は効く”という間違った医学の常識が作られるのです
筆者が「面白い」と思ったのは、「製薬会社から援助を受けている学者の論文を権威があるとされる医学雑誌に掲載させ、それが根拠となって、”この薬は効く”という間違った医学の常識が作られる」というくだりだ。

こういう医療現場の声は決して珍しくない。

こういう話を聞けば、「権威の怪しさ」がよくわかるはずだ。

以前も書いたように、医学を疑似科学にするのは、実は医学者自身なのだ。

といっても、これだけなら、そんな「間違った医学の常識」を作る人などというのは、たとえばかつての『あるある……』の捏造に協力した「ナンチャッテ学者」など一部の人々であり、学者みんながそうだというわけではない、といいたい人もいるだろう。

事実、筆者が拙著『健康情報・本当の話』(楽工社)において、『あるある……』に協力した学者の誤りについて、これは学者全体にありうることなんだと書いていることが疑似科学批判派に理解されているとは言いがたかった。

要するに、自分たち(の信奉する)立派な学者と、ナンチャッテ学者たちとは初めから別ということだろう。

しかし、ノーベル賞をとろうが、学位がいくつあろうが、だれもが、「ナンチャッテ」に陥る可能性がある、という前提で啓蒙活動を行わず、自分が一段高いところに立って、善玉が悪玉を退治するように疑似科学を論破する。

それでいいんだろうか。自分たちはいつも正しいのか?

話を戻そう。

緑茶の研究だってまだ解決していない

以前、緑茶に抗がん作用があるか、という話で、東北大の坪野吉孝氏が、前向き研究で「権威ある雑誌」にそれを否定する論文を出したことがある。

その主張を疑うことなく胸にストンと落としたカルト否定派は、さっそくWeb掲示板などに「緑茶神話はくずれた」と書きまくり、「どうだ、オレは凄いことを知っているだろう」と得意になっていた。

たしかに、これまでの後ろ向きだった疫学研究に比べれば、信用性が高いと言われる前向き研究であることは評価できた。

しかし、それでも筆者は恐れ多いが、坪野吉孝説には懐疑的だった。

なぜなら、緑茶を「何杯飲んだか」などという調べ方など、前向きだろうが何だろうが、科学的と感じなかったからだ。

一口に「お茶を何杯」といったって、濃いお茶もあれば薄いお茶もある。

茶の銘柄によって成分は違う。

1杯の量だって、すし屋ででてくる湯飲みと、温泉街の土産店で売っている夫婦茶碗の小さい方とでは倍近く違う。

作用があるなら、食前に飲むか食後に飲むかでも違うだろう。

なのに「何杯飲んだか」だけで結論を出すなんて……。

複雑系といえる「口に入る物の研究」とはおよそ思えなかったのだ。

カルト否定派たちの、権威ある雑誌だから鵜呑みにする、という態度もおかしいと思った。

ライナス・ポーリング博士派のカタをもつわけではないが、「経口」と「血中濃度」が同じではないことぐらい、トーシロでも気づくだろうに…。

その後、厚生労働省が「血中濃度」を調べる研究で、再び坪野吉孝説を覆した。

厚生労働省の説も完全ではない。

しかし、少なくとも、「何杯飲んだか」に留まらない研究は、一歩前進だと思った。

スケプティクスの精神は、「権威」に与しない懐疑の眼を持つことである。

健康情報・本当の話
健康情報・本当の話

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